歴史と伝承の詳しい解説

 雅楽は、中国や朝鮮等を経由して我が国に入ってきた外来音楽と我が国独自の音楽が融和し、時代の変遷を経て、現在伝えられている歌舞です。

 渡来した外来の楽舞は種類も多く、また楽器も種々雑多でしたが、仁明天皇(833〜850)の頃から年月をかけて整理され、従来の渡来してきた国の楽舞を、左方(さほう)は唐楽(とうがく)、右方(うほう)は高麗楽(こまがく)に分けました。そして、左方は唐・林邑(りんゆう)楽、右方は高麗(こま)・百濟(くだら)・渤海(ぼっかい)楽としました。

 平安中期から外来音楽の日本化が進み、新作の楽や舞が新たに作られ、歌物の催馬楽(さいばら)や朗詠(ろうえい)が誕生したのもこの頃です。貴族の教養科目として、詩歌管絃が重要視され、式典等では特定の公卿が琵琶・箏・歌物を受け持ちました。

 装束については、左舞は赤、右舞は緑という舞装束の区別を伝えていますが、寛治七年(1093)の踏歌節會(とうかのせちえ)の舞楽に、萬歳楽(まんざいらく)・延喜
楽(えんぎらく)・賀殿(かてん)・地久(ちきゅう)が行われ、左右各四人出ましたが、「而右舞人之中左舞人乍着赤装束立加其列、被尋問處、申云、左右兼舞人、俄不能改装束勤仕之由者、奇恠第一也」とあります。この頃には左右舞人の装束の色が決まっていたようです。

 その後、応仁の乱で都の生活文化が壊滅した為宮廷の楽人も離散してしまい、雅楽衰退の時代でしたが、安土桃山時代から江戸時代にかけて復興しました。

 明治時代になり皇居が江戸城に定められて、明治三年(1870)に太政官に雅楽局が設けられ、雅楽をつかさどる事になりました。東京の雅楽局には三方(さんぽう)楽人(京都・春日・天王寺)が呼び寄せられ、各楽家(がっけ)・各系統の伝承を整理統合し「明治撰定譜」を定めて今日に至っています。

宮内庁楽部 元首席楽長 ・ 大阪楽所 元音楽監督
   東 儀 兼 彦


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